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三門にも歴史の痕跡が残る [歴史遺産]

大徳寺の三門(金毛閣)はずっと閉ざされている。この中には天井と柱に装飾画が描かれている。1589年に、千利休が長谷川等伯に依頼し、等伯が世に出る絵になった貴重な作品がある。
この三門は朱に塗られた大徳寺の中で木に覆われながらも目立つ存在である。その三門には深い歴史の痕跡が残る。それは、千利休が秀吉から切腹を命じられた原因の一つとなった逸話が伝わっている。

応仁の乱で焼失した三門を、1529年、千利休は大徳寺の三門を楼閣に造替し、利休自身の木像を楼上に安置。この利休像は雪駄を履いていた。三門は秀吉もくぐり、その上に利休が雪駄で立っているということが秀吉の怒りに触れ切腹に繋がったようである。

楼閣として造替えられた「金毛閣」に、千利休が等伯の画力を見込んで依頼した。当時は、京の画壇を支配していたのが狩野永徳率いる狩野派である。永徳は信長・秀吉をはじめ全国の武将、朝廷からも厚い信頼を得ていた。その狩野派が大規模な装飾事業は握っていた中での、等伯への依頼だった。
利休が切腹で命を閉じた後、等伯は、利休を思いながら描いたのが豪華絢爛な「金碧障壁画」。松ではなく儚くも消え去る美しい草花と言われている。
この障壁画が秀吉にも気に入られ、長谷川派も狩野派と並ぶ存在となったと言われている。

絵師から顧みた歴史の一コマを感じとるのも実におもしろいものである。

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