福禄の神を迎え入れて、平和な一年に 【一茶庵稽古追想】 [文化想造塾<易社/煎茶>]
今日は「節分」。冬と春の分かれる節目の日である。
「寒さあけて春に入る日」といいたいが、寒中に震える日々に加えコロナウィルス(オミクロン株)が猛威ばく進中である。
以前、煎茶稽古で「節分」が題目として取り上げられたことがあった。
そのときに掛けてあったお軸は、鬼が逃げ出していく姿のものだった。そして横のボードには唐の詩人姚合(ようごう)が詠んだ「晦日送窮(みそかそうきゅう)」が書かれていた。
中国ではその昔、大晦日や正月晦日に「送窮」とか「送窮鬼」という家の中の貧乏神を送り出し、福禄の神を迎えて一年の幸福と安寧を祈る行事があったようだ。
古い時代の話ではあるが、大阪の金持ちの家でも「貧乏神送り」といって毎月晦日に焼き味噌を二つ作って家中をもってまわって、家にある災厄を焼き味噌につけ川に流す風習があったという。
いまの節分の「鬼は外 福は内」の原型のような風習なのかもしれない。
晦日送窮
年年到此日 毎年この日になれば
瀝酒拜街中 酒をそそいで、街中で拝んでいる
萬戸千門看 どこの家でも
無人不送窮 貧乏神を送り出さない人は無い
送窮窮不去 貧乏神を送り出しても、貧乏神は去ってくれない
相泥欲何爲 私になじんでしまって、どうしようとするのだ
今日官家宅 私もお役人になったのだから、
淹留又幾何 この家に居座っていられるのも、もうちょっとだ
古人皆恨別 昔の人は皆んな別れを恨んだが
此別恨消魂 この別れにはがっかりしない
只是空相送 でもこれは空しく送り出すだけ
年年不出門 毎年お前はこの門から出て行かないのだから
中国神話伝説大事典より引用
令和四年の春の始まりである。穏やかな春の訪れにとともに福禄の神を迎え、平和な一年になることを祈って。
リポート&写真/ 渡邉雄二・ネット画像より 場所/ 文人会一茶庵 Reported & Photos by Yuji Watanabe
※トップの写真は2018年に八坂神社で撮影したもの
※下段の写真は、数年前の神戸長田神社で撮影されたものをネットより転載
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尾道・文化紀行 https://asulight0911.com/hiroshima_onomichi/
お酒で茶を煎る 【一茶庵稽古追想】 [文化想造塾<易社/煎茶>]
前回の煎茶の稽古は、久々に「玉露」を楽しんだ。
小さな急須に、山盛りの玉露茶葉を惜しげもなく入れる。
お猪口くらいの大きさの湯のみに1/3程ぬるま湯を注ぎ、それを急須の中の山盛り入っている茶葉にできるだけかからないようにゆるりと注ぐ。
待つこと約5分。じんわりとぬるま湯が茶葉に馴染んでくる。
急須から湯のみに注ぐ。ぬるま湯は茶葉に吸い込まれ垂れるのは数滴。
玉露のなんとも言えない色が着いている。
一煎目は玉露の甘みでまろやかに。そして二煎、三煎と。通常、六煎まで回繰り返す。甘味、苦味、渋味などの微妙な味の違いを楽しむことができる。
今回の稽古では、4煎目はぬるま湯ではなく、貴重な原酒をぬるま湯の替わりに急須に注ぐ。日本酒とお茶のコラボである。見事な組み合わせ。日本酒の辛味がジューシーな味に変わっていた。
待つ時間を利用して、写真にあるお軸の詩を紐解いていく。
上田秋成、与謝蕪村の友人の、漢文学者の村瀬栲亭(こうてい)の書である。
茶の湯の世界に喧嘩を売るような漢詩である。ご想像ください。
リポート&写真/ 渡邉雄二 場所/ 文人会一茶庵 Reported & Photos by Yuji Watanabe
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小さな急須に、山盛りの玉露茶葉を惜しげもなく入れる。
お猪口くらいの大きさの湯のみに1/3程ぬるま湯を注ぎ、それを急須の中の山盛り入っている茶葉にできるだけかからないようにゆるりと注ぐ。
待つこと約5分。じんわりとぬるま湯が茶葉に馴染んでくる。
急須から湯のみに注ぐ。ぬるま湯は茶葉に吸い込まれ垂れるのは数滴。
玉露のなんとも言えない色が着いている。
一煎目は玉露の甘みでまろやかに。そして二煎、三煎と。通常、六煎まで回繰り返す。甘味、苦味、渋味などの微妙な味の違いを楽しむことができる。
今回の稽古では、4煎目はぬるま湯ではなく、貴重な原酒をぬるま湯の替わりに急須に注ぐ。日本酒とお茶のコラボである。見事な組み合わせ。日本酒の辛味がジューシーな味に変わっていた。
待つ時間を利用して、写真にあるお軸の詩を紐解いていく。
上田秋成、与謝蕪村の友人の、漢文学者の村瀬栲亭(こうてい)の書である。
茶の湯の世界に喧嘩を売るような漢詩である。ご想像ください。
リポート&写真/ 渡邉雄二 場所/ 文人会一茶庵 Reported & Photos by Yuji Watanabe
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お酒で茶を煎る 【一茶庵稽古追想】 [文化想造塾<易社/煎茶>]
前回の煎茶の稽古は、久々に「玉露」を楽しんだ。
小さな急須に、山盛りの玉露茶葉を惜しげもなく入れる。
お猪口くらいの大きさの湯のみに1/3程ぬるま湯を注ぎ、それを急須の中の山盛り入っている茶葉にできるだけかからないようにゆるりと注ぐ。
待つこと約5分。じんわりとぬるま湯が茶葉に馴染んでくる。
急須から湯のみに注ぐ。ぬるま湯は茶葉に吸い込まれ垂れるのは数滴。
玉露のなんとも言えない色が着いている。
一煎目は玉露の甘みでまろやかに。そして二煎、三煎と。通常、六煎まで回繰り返す。甘味、苦味、渋味などの微妙な味の違いを楽しむことができる。
今回の稽古では、4煎目はぬるま湯ではなく、貴重な原酒をぬるま湯の替わりに急須に注ぐ。日本酒とお茶のコラボである。見事な組み合わせ。日本酒の辛味がジューシーな味に変わっていた。
待つ時間を利用して、写真にあるお軸の詩を紐解いていく。
上田秋成、与謝蕪村の友人の、漢文学者の村瀬栲亭(こうてい)の書である。
茶の湯の世界に喧嘩を売るような漢詩である。ご想像ください。
リポート&写真/ 渡邉雄二 場所/ 文人会一茶庵 Reported & Photos by Yuji Watanabe
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小さな急須に、山盛りの玉露茶葉を惜しげもなく入れる。
お猪口くらいの大きさの湯のみに1/3程ぬるま湯を注ぎ、それを急須の中の山盛り入っている茶葉にできるだけかからないようにゆるりと注ぐ。
待つこと約5分。じんわりとぬるま湯が茶葉に馴染んでくる。
急須から湯のみに注ぐ。ぬるま湯は茶葉に吸い込まれ垂れるのは数滴。
玉露のなんとも言えない色が着いている。
一煎目は玉露の甘みでまろやかに。そして二煎、三煎と。通常、六煎まで回繰り返す。甘味、苦味、渋味などの微妙な味の違いを楽しむことができる。
今回の稽古では、4煎目はぬるま湯ではなく、貴重な原酒をぬるま湯の替わりに急須に注ぐ。日本酒とお茶のコラボである。見事な組み合わせ。日本酒の辛味がジューシーな味に変わっていた。
待つ時間を利用して、写真にあるお軸の詩を紐解いていく。
上田秋成、与謝蕪村の友人の、漢文学者の村瀬栲亭(こうてい)の書である。
茶の湯の世界に喧嘩を売るような漢詩である。ご想像ください。
リポート&写真/ 渡邉雄二 場所/ 文人会一茶庵 Reported & Photos by Yuji Watanabe
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秋の煎茶会のお軸は、茶の効能を詠いあげた茶詩 【一茶庵稽古追想】 [文化想造塾<易社/煎茶>]
煎茶会に掛けられていたのが、写真にあるお軸。漢字で埋め尽くされている。さっぱり分からないので、本番前に解説してもらった。
分かったことは、茶の効能を巧みに歌い上げた茶詩、ということ。茶の歴史の中でもっとも偉大な茶詩の一つということだった。作者は、唐の時代の「盧同(ろどう)」。
書かれているのは中国茶の効能。その一部を訳すと
一碗飲めば、喉を潤し。
二碗飲めば、孤独もなくなる。
三碗飲んで、俺のはらわたの中を探ってみると 文字五千巻が浮かんでくる。
四碗飲めば、軽く汗ばみ 平素の不満も毛穴から散っていく。
五碗飲めば、肌も骨も清らかに。
六碗飲めば、仙人にもなった気分でいられる。
七碗で、もうこれ以上飲めなくなり ただ、両脇からそよそよと清風が起こるだけ。
煎茶は、この茶詩に従ったのか、仙人にもなった気分を楽しむために六煎まで淹れることが多い。今回の煎茶会では四煎だから、平素の不満を解消して帰っていただけたはずである。
リポート&写真/ 渡邉雄二 トップの写真/ 茶詩画像より転載
分かったことは、茶の効能を巧みに歌い上げた茶詩、ということ。茶の歴史の中でもっとも偉大な茶詩の一つということだった。作者は、唐の時代の「盧同(ろどう)」。
書かれているのは中国茶の効能。その一部を訳すと
一碗飲めば、喉を潤し。
二碗飲めば、孤独もなくなる。
三碗飲んで、俺のはらわたの中を探ってみると 文字五千巻が浮かんでくる。
四碗飲めば、軽く汗ばみ 平素の不満も毛穴から散っていく。
五碗飲めば、肌も骨も清らかに。
六碗飲めば、仙人にもなった気分でいられる。
七碗で、もうこれ以上飲めなくなり ただ、両脇からそよそよと清風が起こるだけ。
煎茶は、この茶詩に従ったのか、仙人にもなった気分を楽しむために六煎まで淹れることが多い。今回の煎茶会では四煎だから、平素の不満を解消して帰っていただけたはずである。
リポート&写真/ 渡邉雄二 トップの写真/ 茶詩画像より転載
路地裏に咲く清楚なお茶の花 【一茶庵稽古追想】 [文化想造塾<易社/煎茶>]
前回の稽古は、蓋・扉をはめこむために溝がひいてある箱もの「倹飩(けんどん)」に収められたお道具を取り出すことから始まった。
お茶は雁が音で、淹れ方は掌(たなごころ)。雁が音のまろやかさを味わいながら三煎まで淹れ味の変化を楽しんだ。
今回のお軸は、写真にあるように木の枝に美しい鳥が留まっているもの。木には白の花が咲いている。
いつも通り、"これはなんという木ですか"と宗匠が尋ねるところから始まった。
うぅ〜、唸る声がもれるだけ。"白い花が咲く木ですよ"といわれても想像がつかない。唸り声に業を煮やした宗匠があっさりと「お茶の木」と解答。
お茶の木に花が咲くの?と疑問が湧いた。茶畑からでは想像がつかないが、美しい花がお軸の中で咲いていた。枝に留まる青色鮮やかな鳥は「瑠璃鳥」だという。
さて、このお軸の画のモチーフから浮かぶのは中国 楚の文人、陳璵義(チンヨギ)の詩。
伊軋籃輿不受催
湖南秋色更佳哉。
青裙玉面初相識
九月茶花滿路開。
籠から眺める湖南の秋は美しい。
道沿いに咲くお茶の花は満開、
地元の青いスカートを履く女の子と楽しい会話もはずむ。
という意味になる。女の子を瑠璃鳥にたとえ描いているようだ。湖南のお茶はいまも有名である。雁が音のまろやかさが湖南の秋を感じさせてくれる。
お茶は雁が音で、淹れ方は掌(たなごころ)。雁が音のまろやかさを味わいながら三煎まで淹れ味の変化を楽しんだ。
今回のお軸は、写真にあるように木の枝に美しい鳥が留まっているもの。木には白の花が咲いている。
いつも通り、"これはなんという木ですか"と宗匠が尋ねるところから始まった。
うぅ〜、唸る声がもれるだけ。"白い花が咲く木ですよ"といわれても想像がつかない。唸り声に業を煮やした宗匠があっさりと「お茶の木」と解答。
お茶の木に花が咲くの?と疑問が湧いた。茶畑からでは想像がつかないが、美しい花がお軸の中で咲いていた。枝に留まる青色鮮やかな鳥は「瑠璃鳥」だという。
さて、このお軸の画のモチーフから浮かぶのは中国 楚の文人、陳璵義(チンヨギ)の詩。
伊軋籃輿不受催
湖南秋色更佳哉。
青裙玉面初相識
九月茶花滿路開。
籠から眺める湖南の秋は美しい。
道沿いに咲くお茶の花は満開、
地元の青いスカートを履く女の子と楽しい会話もはずむ。
という意味になる。女の子を瑠璃鳥にたとえ描いているようだ。湖南のお茶はいまも有名である。雁が音のまろやかさが湖南の秋を感じさせてくれる。
初冬に想う。雁が音の渋さが染みる 【一茶庵稽古追想】 [文化想造塾<易社/煎茶>]
湯冷ましを雁が音(茶葉)にかからないようにゆっくりと注ぐ。1煎目のまろやかさが、2煎目には渋さが増し少し引き締まる。そして3煎目はキレが抜けていく。
昨夜の稽古のお題は、李白の「白鷺鷥(はくろじ)」。漢詩や墨絵に登場する白鷺は「男」を比喩する。それも美しい男性の代名詞である。今回のこの漢詩は、李白が友人の男性の悲哀を詠んだものとされている。
白鷺拳一足
月明秋水寒
人驚遠飛去
直向使君灘
[現代訳]
片足で立つ白い鷺
月は明るく 秋の川の流れは冷たい
人影に驚き 白鷺は遠くへ飛び去り
まっすぐに 使君灘へ向かっていく
そしてもう一句
白鷺下秋水
孤飛如墜霜
心閑且未去
独立沙洲旁
[現代訳]
白鷺が秋の水におりてくる。
1羽で飛ぶさまは、霜がおちてくるみたい。
心をしずめてしばらく立ち去らない。
ひとりで砂の中洲のそばに立っている。
冬到来に、男の悲哀を感じさせられる。そして、雁が音の渋さが心に染みる。
伯夷列伝が稽古の台本 【一茶庵稽古追想】 [文化想造塾<易社/煎茶>]
以前、通っていた煎茶の稽古はサロン的な教場だった。男性の夜の語らいを楽しむところだった。その語らいの台本が掛軸で、書かれている内容(漢詩・画)を解きあかしていくサロン塾のようなものだった。毎回、その季節や旬のストーリーが表現されていた。苦手な分野と思いながらも、そのサロンで求められるのは「想像力」だったように思う。時の経過とともにいい歳したオジサンたちでも藹々と盛り上がっていった。
ある夜の稽古の台本は、黒板に書かれていた司馬遷の史記にある伯夷列伝の「伯夷・叔斉(はくいしゅくせい)」だった。
伯夷・叔斉は、中国の殷・周の交代期のころ伯夷と叔斉の兄弟が、父文王の死後すぐに周の武王が殷の紂王を討ったことを、不義、不仁として周の作物を食することを拒み、首陽山に隠れワラビだけで食い凌いだが、ついに餓死したという伝説を表現したもの。
その行いが儒家によって孔子以来の「仁」と高く評価されたという。それで司馬遷が伯夷列伝を「史記」の最初に置いた、と言われている。
その伯夷列伝を紹介する。
武王已平殷亂、天下宗周
ぶおうすでにいんのらんをたひられげ、てんかしゅうをそうとす
而伯夷・叔齊恥之、義不食周粟
しかるにはくい・しゅくせいこれはじ、ぎもてしゅうのぞくをくらわず
隠於首陽山、采薇而食
しゆやうざんにかくれ、びをとりてこれをくらう
及餓且死作歌
うえてまさにしなんとするにおよびうたをつくる
其辞曰、 登彼西山兮、采其薇矣
そのじにいはく、かのせいざんにのぼり、そのびをとる
以暴易暴兮、不知其非矣
ぼうにもってぼうにかえ、そのひをしらず
神農・虞・夏、忽焉沒兮
しんのう・ぐ・か、こつえんとしてをはる
吾安適歸矣
われいづくにかてききせん
于嗟徂兮 命之衰矣
ああ、ゆかん、めいこれれおとろへたり、と
遂餓死於首陽山
ついにしゆやうざんにがしす
由此観之、怨邪非邪
これによりてこれをみれば、うらみたるか、あらざるか
このストーリーは後世によく登場する。以前、中国古典の教科書にもよく使われていた。
このお軸(写真)は、昭和18年に、ガダルカナル島から日本軍撤退の知らせをいち早く聞いた、如意山人というお坊さんが、戦争の激変を「伯夷叔斉」をモチーフに一茶菴で描いたものである。賛には「高嶺頭上見春色」と書かれてあった。
トップ画像 / 伯夷叔斉の画像より転載
ある夜の稽古の台本は、黒板に書かれていた司馬遷の史記にある伯夷列伝の「伯夷・叔斉(はくいしゅくせい)」だった。
伯夷・叔斉は、中国の殷・周の交代期のころ伯夷と叔斉の兄弟が、父文王の死後すぐに周の武王が殷の紂王を討ったことを、不義、不仁として周の作物を食することを拒み、首陽山に隠れワラビだけで食い凌いだが、ついに餓死したという伝説を表現したもの。
その行いが儒家によって孔子以来の「仁」と高く評価されたという。それで司馬遷が伯夷列伝を「史記」の最初に置いた、と言われている。
その伯夷列伝を紹介する。
武王已平殷亂、天下宗周
ぶおうすでにいんのらんをたひられげ、てんかしゅうをそうとす
而伯夷・叔齊恥之、義不食周粟
しかるにはくい・しゅくせいこれはじ、ぎもてしゅうのぞくをくらわず
隠於首陽山、采薇而食
しゆやうざんにかくれ、びをとりてこれをくらう
及餓且死作歌
うえてまさにしなんとするにおよびうたをつくる
其辞曰、 登彼西山兮、采其薇矣
そのじにいはく、かのせいざんにのぼり、そのびをとる
以暴易暴兮、不知其非矣
ぼうにもってぼうにかえ、そのひをしらず
神農・虞・夏、忽焉沒兮
しんのう・ぐ・か、こつえんとしてをはる
吾安適歸矣
われいづくにかてききせん
于嗟徂兮 命之衰矣
ああ、ゆかん、めいこれれおとろへたり、と
遂餓死於首陽山
ついにしゆやうざんにがしす
由此観之、怨邪非邪
これによりてこれをみれば、うらみたるか、あらざるか
このストーリーは後世によく登場する。以前、中国古典の教科書にもよく使われていた。
このお軸(写真)は、昭和18年に、ガダルカナル島から日本軍撤退の知らせをいち早く聞いた、如意山人というお坊さんが、戦争の激変を「伯夷叔斉」をモチーフに一茶菴で描いたものである。賛には「高嶺頭上見春色」と書かれてあった。
トップ画像 / 伯夷叔斉の画像より転載
真夏の夜に、冷水の煎茶が喉を下る 【一茶庵煎茶追想】 [文化想造塾<易社/煎茶>]
このお軸を詠むと、老人はのんびりとひとりで酒を傾けながら爽やかな風を肌に感じながら優遊自適に画や書を楽しむ、といったことが書かれている。深読みすれば、俗世から離れ、寂しさ切なさの心情が詠みとれる。
詠み解きながら、冷水で淹れた煎茶を楽しむ。一煎目は二つある急須の一つに冷水を適量注ぐ 。そしてもう一つの急須に移しかえる。茶葉を計り、湯のみをふく。計った茶葉を空になっている急須に入れる。そこに移しかえた急須の冷水を入れてしばし時間をおく。茶葉が冷水を吸って葉が開く。飲みごろである。一煎目は爽やかな味が喉を下る。そして二煎目は・・・。
なぜ、こんな面倒なことをするのか、とお思いになるだろう。そのひと手間が煎茶の味をつくり出すと言っても過言ではない。器や冷水(また湯)の温度や、間を整えることで茶葉から最良の味が抽出される。そして、二煎(二回)、三煎(三回)と淹れる。味は、その都度変化する。まろやかさを楽しむのか、苦み渋さを楽しむのか、その時の心模様にあわせて淹れるのが煎茶の醍醐味である。
夏の暑い夜に、煎茶で舌鼓をうちながら悠々な時が流れた。二煎目からは少し苦み渋さがたっていた。
詠み解きながら、冷水で淹れた煎茶を楽しむ。一煎目は二つある急須の一つに冷水を適量注ぐ 。そしてもう一つの急須に移しかえる。茶葉を計り、湯のみをふく。計った茶葉を空になっている急須に入れる。そこに移しかえた急須の冷水を入れてしばし時間をおく。茶葉が冷水を吸って葉が開く。飲みごろである。一煎目は爽やかな味が喉を下る。そして二煎目は・・・。
なぜ、こんな面倒なことをするのか、とお思いになるだろう。そのひと手間が煎茶の味をつくり出すと言っても過言ではない。器や冷水(また湯)の温度や、間を整えることで茶葉から最良の味が抽出される。そして、二煎(二回)、三煎(三回)と淹れる。味は、その都度変化する。まろやかさを楽しむのか、苦み渋さを楽しむのか、その時の心模様にあわせて淹れるのが煎茶の醍醐味である。
夏の暑い夜に、煎茶で舌鼓をうちながら悠々な時が流れた。二煎目からは少し苦み渋さがたっていた。
「自娯」の心が、煎茶を絶妙にする [文化想造塾<易社/煎茶>]
数年前に、文人会一茶庵の佃宗匠からいただいた「おいしいお茶 9つの秘伝(佃一輝 著書)」を読み返す機会があった。著書の冒頭トビラに下記のような言葉が書かれていた。
お茶のうまさは、 葉と湯と間から生まれる。
おいしいお茶をいれるには、茶葉を選び、水とその温度をうかがい、
何よりも、間が大切である。これに良き器が加われば、完璧となる。
「煎茶三絶」ともいうべき、極意と自分で愉しみ、自分を楽しむ「自娯(じご)」の心が、煎茶の味を絶妙にする。
稽古のときに、宗匠がよくいわれた言葉である。
改めて、心に沁みる。
※この記事は2017年6月「心と体のなごみブログ」に掲載したものを加筆し転載
リポート & 写真 / 渡邉雄二 著書 / おいしいお茶9つの秘伝(著者:佃一輝 発行日本放送出版協会)
お茶のうまさは、 葉と湯と間から生まれる。
おいしいお茶をいれるには、茶葉を選び、水とその温度をうかがい、
何よりも、間が大切である。これに良き器が加われば、完璧となる。
「煎茶三絶」ともいうべき、極意と自分で愉しみ、自分を楽しむ「自娯(じご)」の心が、煎茶の味を絶妙にする。
稽古のときに、宗匠がよくいわれた言葉である。
改めて、心に沁みる。
※この記事は2017年6月「心と体のなごみブログ」に掲載したものを加筆し転載
リポート & 写真 / 渡邉雄二 著書 / おいしいお茶9つの秘伝(著者:佃一輝 発行日本放送出版協会)
洗塵橋を渡れば、別世界 [文化想造塾<易社/煎茶>]
文人会一茶庵では年に一度、大阪府和泉市にある久保惣(くぼそう)美術館の茶室で煎茶会を開催している。筆者も稽古の一環として煎茶会に何度か参加したことがある。
同美術館は、森の中に包まれているかのように自然と一体になっている。茶室は美術館の正面入り口から一番遠いところにある。森の小路をくぐり抜け、敷地内に流れる松尾川を渡ると、その奥に惣庵(非公開)と聴泉亭(ちょうせんてい)がある。昭和12年、二代目久保惣太郎氏が、表千家不審庵 残月亭を写し建てた茶室。
その松尾川に架る太鼓橋に「洗塵橋(せんじんばし)」(写真)と書かれていた。
この名を見て、俗の世界のすべての塵を洗い落とすために架けられた橋。浮世を離れたひと時を過ごすための清め橋なのであろう。渡れば、別世界。俗の世界から離れていく。
■美術館紹介(久保惣美術館HP参照)
和泉市久保惣記念美術館は、昭和57年に開館した和泉市立の美術館です。日本と中国の絵画、書、工芸品など東洋古美術を主に約11,000点を所蔵。
「久保惣」(久保惣株式会社)は、明治時代からおよそ100年にわたり綿業を営み、泉州有数の企業として大きく発展した。
初代久保惣太郎氏(1863-1928)が明治19年(1886)に創業。昭和52年の廃業を機に三代惣太郎氏が代表して、所縁の地である和泉市の地域文化発展と地元への報恩の意を込め、美術品、および美術館の建物、敷地、基金が和泉市へ寄贈され、昭和57年10月に、寄贈者を顕彰する館名をつけ、久保家旧本宅跡地に開館したのが「和泉市久保惣記念美術館」である。
※この記事は2011年10月の「心と体のなごみブログ」に掲載したものを加筆し転載
同美術館は、森の中に包まれているかのように自然と一体になっている。茶室は美術館の正面入り口から一番遠いところにある。森の小路をくぐり抜け、敷地内に流れる松尾川を渡ると、その奥に惣庵(非公開)と聴泉亭(ちょうせんてい)がある。昭和12年、二代目久保惣太郎氏が、表千家不審庵 残月亭を写し建てた茶室。
その松尾川に架る太鼓橋に「洗塵橋(せんじんばし)」(写真)と書かれていた。
この名を見て、俗の世界のすべての塵を洗い落とすために架けられた橋。浮世を離れたひと時を過ごすための清め橋なのであろう。渡れば、別世界。俗の世界から離れていく。
■美術館紹介(久保惣美術館HP参照)
和泉市久保惣記念美術館は、昭和57年に開館した和泉市立の美術館です。日本と中国の絵画、書、工芸品など東洋古美術を主に約11,000点を所蔵。
「久保惣」(久保惣株式会社)は、明治時代からおよそ100年にわたり綿業を営み、泉州有数の企業として大きく発展した。
初代久保惣太郎氏(1863-1928)が明治19年(1886)に創業。昭和52年の廃業を機に三代惣太郎氏が代表して、所縁の地である和泉市の地域文化発展と地元への報恩の意を込め、美術品、および美術館の建物、敷地、基金が和泉市へ寄贈され、昭和57年10月に、寄贈者を顕彰する館名をつけ、久保家旧本宅跡地に開館したのが「和泉市久保惣記念美術館」である。
※この記事は2011年10月の「心と体のなごみブログ」に掲載したものを加筆し転載