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蓮の華が咲くことを願い続ける蓮の葉でありたい 【禅語1-泥裏洗土塊】 [禅問答]

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だいぶ前になるが、佐川美術館で「白隠と仙厓展」を観たときに、告知ポスターや展覧会テーマの切り口などが大変ユニークで、仏教への興味をそそるものだったのでわざわざ観に行ったのを覚えている。
その時に、白隠禅師が考案した問答、隻手音声(せきしゅおんじょう)に触れ、「禅問答」という公案(禅の道で悟らせる問題)に、禅宗で悟道させる問い掛けが分かりやすく示されていたのを読んだ。それ以来、機会に触れるごとに読むのを楽しみにしている。

今回、「禅語」をキーワードにネット検索していると、私でも理解できる分かりやすく禅問答が解説されているのが見つかり、それを定期的に転用し紹介したいと思っている。
転用させていただくのは、岐阜市にある臨済宗妙心寺派寺院「大智寺」のご住職が以前ホームページに掲載していた(いまは更新されていない)禅問答。事前の許諾を得ているので、機会があるごとに一つひとつ紹介させていただく。

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【きょうの禅語-1】

【 泥裏洗土塊 】 でいりにどかいをあらう

板取にあるスイレンの咲く池は、とても透明度が高く、美しい池なのだとか。
かつて誰にも知られていなかった場所がモネの池という名前をいただいてから、とても輝かしい場所に見えてくるのは不思議なものである。

大智寺のお隣、獅子庵の池にも、睡蓮はたくさん咲いている。
びっしりと葉に覆われている上に、その透明度はかなり低い。
「これは蓮ですか?」「いいえ、睡蓮です。」
こんなやりとりがちょくちょくあるのは、この池があまりにも泥で汚れているからだろうか。

さて、今月の禅語は、「泥裏に土塊を洗う」である。
泥の中で土の塊を洗ったところで、べたべたどろどろ。
決して綺麗になるはずもなく、そのけがれ、その醜さは極まりない。
しかも限りなく無駄骨であるという意味になる。

学び、鍛え、努力をしても、それは限りなく無駄骨なのだろうか。
坐禅をし、読経をし、修行を積んだとして、凡夫である私たちは、汚れたままで仏になれないのだろうか?

こんな問答がある。
「蓮華がまだ咲いていない時は何と呼べばいい?」 → 「蓮の華だ」
「では、咲いたら何と呼ぶ?」          → 「蓮の葉だ」
私たちは、本来仏である。
学び鍛え努力をすれば、花開く素質がある。
この問答のように、咲いてなくても、蓮華は蓮華。
すばらしい存在であると、自覚してほしい。
だが、ひとたび咲いたとしても、咲くことを願い続ける蓮の葉であり続けなければならない。

できることが増えて、自分は前より優れた人になったと思っても、そこに安穏とせず、常に泥中にいるかのごとく、ドロドロともがき、一つ、もう一つと咲かせよと説いているのである。

進んでいるのかいないのか分からないようなわずかな変化で、まるで無駄骨を続けているように感じたとしても、その先にしか蓮華は咲かないのである。

【大智寺-今月の禅問答より】

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尾道・文化紀行 https://asulight0911.com/hiroshima_onomichi/

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