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鯉を眺めながら、新茶を中茶法で味わう。 [一茶庵 易社]

一昨日の煎茶では、新茶をいくつかの淹れ方で楽しませてもらった。その中で、写真にある中茶法は、茶碗に直接茶葉を入れ湯を注ぐ。茶葉が吸い取った微かなお茶を味わう。新茶の味が一番伝わる独特の淹れ方である。
新茶3.jpg

通常、新茶といわれるものは、摘んだその日のうちに水分を完全に無くしたものがほとんどである。しかし、むかしは少し水分を含ませていたこともあり、その製造方法をいまでも伝承している茶処がある。その新茶を中茶法で淹れると、通常の新茶とは少しまろやかさが違う。

新茶を楽しみながら、お軸に目を移すと、そこには「鯉」の画が描かれていた。どちらかというと地味な画である。普通に良く見かける”鯉の滝登り” 画とは違う。鯉の滝登り画でよく見るのは、流れの急な龍門という河を登る姿。登りきった鯉は、「龍」になるという伝説になぞらえて、「竜門に登った」とう。それが「登竜門」という言葉の語源ということらしい。この関門を登ることが立身出世への道になる、成功の糸口となるということから、5月5日の節句に鯉のぼりをあげる風習になっているようだ。
新茶1.jpg

その鯉と、お軸にある鯉の意味がまったく異なる。中国では、川の底で静かにしている鯉の墨画はよくみかける。この画の意味は、非常に深いものがある。” 能ある鷹は爪を隠す “ 。これを美学とする儒教の教えがこの画に託されている。
派手に目立つ滝登りする鯉に対比して、長い距離を泳ぎすべての能力を持ち合わせながら静かに時を過ごす生き方を鯉で表現している。昔の知識人や文人が生きる美学として重んじていた哲学かもしれない。

書経(中庸)にその一節がある。
潛雖伏矣,亦孔之昭!
故君子内省不疚,無惡於志。
君子所不可及者,其唯人之所不見乎!

詩に云く、潛[ひそ]まれるは伏[かく]れたりと雖(いえど)も、亦孔[はなは]だ之れ昭(あき)らけし、と。故に君子は内に省みて疚[やま]しからずして、志に惡むこと無からしむ。君子の及ぶ可からざる所の者は、其れ唯人の見ざる所か。
簡単に解くと、立派な人物は、他人の見ていないところで自分自身を慎むものである、ということが書かれているようだ。
新茶を味わいながら、静かなる「鯉」の内なる想いを感じるひとときだった。
新茶5.jpg


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