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一茶庵宗家 稽古場講論 ブログトップ

王陽明の泛海を、安岡正篤氏が書き示す。 [一茶庵宗家 稽古場講論]

数年前の煎茶稽古の際に掛けられていたお軸である。懐かしの写真の一枚として目に留まった。
雄大さの中に男の激しい生きざまを文字に表現しているように見えたので印象に残っている。

稽古ではいつもの通り、この詩の文字数は、というところから始まった。そしてこの中で読める字があるか?という問いになかなか明確に答えられない。わかった文字から想像し、何を意図した詩なのかを連想し進んでゆく。
ひと通り読み終わ宗匠からの解説によると、中国の明大の時代に生きた王陽明の「泛海(ぼうかい/海に泛(う)かぶ)」という詩であることわかった。王陽明が、書いた当時の自身の心情を表現した詩である。想像の世界と現実の状況を混在した不思議な詩だと宗匠はいう。
その内容は以下のとおり。

「泛海」
險夷原不滞胸中
何異浮雲過太空
夜静海濤三萬里
月明飛錫下天風

「海に泛(うか)ぶ」
險夷(けんい) 原(もと) 胸中に滞(とどま)らず
何ぞ異ならん 浮雲の太空(たいくう)を過(す)ぐるに
夜は静かなり 海濤(かいとう)三万里
月明(げつめい)に錫(しゃく)を飛ばして天風を下る

逆境であれ順境であれ、それらに心を煩わせることなどない。
それらは、あたかも浮雲が空を通り過ぎるようなものなのだから。
静かな夜の大海原を、月明かりに乗じて錫杖を手にした道士が天風を御しながら飛来する、まるでそんな広大無碍な心境である。
目的地に飛んでいった僧侶のように、わたしも目的地を目指したい。
といった内容である。

王陽明は官僚であり、そして陸軍大将として戦いを指揮してきた。その道中、苦難も経験し、後に「陽明学」という思想を生んだ人物である。その王陽明はこよなく茶に傾倒したと言われている。
宗匠曰く、煎茶は隠棲した文人の趣向にあるが、激動騒乱の中で心の平穏を保つ欠かせないものだったようである。
この書は、陽明学者で思想家の「安岡正篤」氏が、一茶庵でしたためた直筆書。

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煎茶の稽古で、本草学を学ぶ。 [一茶庵宗家 稽古場講論]

先日の煎茶の稽古に登場したのが「本草学」なるもの。耳にしたことのない学問に躊躇しながらも興味を覚えた。

ひと言でいうなら「中国古来の植物を中心とする薬物学」となる。中国500年ころ陶弘景のまとめた「神農本草」が初期文献ということである。それを明の李時珍が「本草綱目」という題目で集大成し確立された学問と資料にあった。
日本には平安時代に伝わり、江戸時代に全盛となり、中国の薬物を日本産のものに当てる研究から動物、鉱物におよび博物学・物産学に発展していった。

稽古に鹿のお軸が掛けてあった。茶席では鹿といえば秋によく見かけ、この時期になぜだろうというという疑問がわいていた。
鹿の画の上にこのよう賛(写真)が書かれてあった。説明を聞くと、鹿の種類や角の解説文だった。鹿の角は、不老長寿の薬としては周知の事実である。この解説が、明の時代の「本草綱目」に記されてあるという。

こんな話を聞きながら、一茶庵に伝わる「沃茶法(よくちゃほう)」で春の夜を堪能した。
ちなみに沃茶法とは、急須に茶葉を入れ、急須の外に湯をかけて急須を温め茶葉を蒸らす。そして急須の蓋を開け茶葉に湯を注ぐ。

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希少性の高い一茶菴、「登録有形文化財」に指定される。 [一茶庵宗家 稽古場講論]

日本には数多くの文化財がある。世界遺産、国宝、重要文化財など分野ごとで登録されている。その文化財の中で、1996年の文化財保護法改正により創設された文化財登録制度があり、その登録原簿に登録された「登録有形文化財」というのがある。

建造物としての「登録有形文化財」は、全国で8,331件。その中で1番多い都道府県がなんと大阪の514件でトップ。次いで505件の兵庫県が続いている。予想外の順位である。考えると大阪は江戸時代から明治時代にかけての物流の拠点であり、商売の中心地として発展した。また兵庫は、海外との交流の港町として栄えた街である。ご存知のように外国人が住んだ居留地に建つビルや館が多い。その歴史的遺産がいまも多く存在するわけである。

その大阪で、平成26年11月に登録されたのが、小生が煎茶の稽古に通う一茶庵宗家の「佃家煎茶室主屋」と「佃家煎茶室土蔵」の2つの建造物。土蔵は、1848年の嘉永元年に建造されもので、日本建築物の希少性を後世に伝え継いでいくことから「登録有形文化財」として認定された。

その一茶庵は、大阪・谷町の商業ゾーンの一隅にある。ビルの谷間にある、路面からは見えない所に居を構える草庵である。主屋は、昨年改装され、文人茶を嗜むために造られた一趣独特の佇まい。佃一輝宗匠の想いがこめられた逸室が並ぶ。

公開されているわけではない。煎茶の稽古や茶事の際に一部を観る程度である。5月、6月の「e-よこ逍遥」の講座でおこしいただいた折に、許されたところだけでも観ていただけるはずである。

登録有形文化財看板.JPG

中国の古代思想、60年の時空 [一茶庵宗家 稽古場講論]

一昨日の稽古で、宗匠から「一茶庵 会報」が渡された。
その中に、1月の宗家稽古場講論として" 今年は乙未(きのと ひつじ) " という読物があり、宗匠から紹介があった。題目は特になかったが、興味深いものだった。私が、差し出がましいようだが、「中国の古代思想、60年の時空」という題目をつけてここに原文のまま紹介させていただく。

お軸や箱書きに書いてある年号は「十干十二支(じゅっかんじゅうにし)」であらわされています。
中国の古代思想では、時空は木が成長して枯れるように、あるサイクルで繰り返されると考えられていました。
時空の根源は太極で、それは陰陽に分かれ、木火土金水の五つの存在要素からは、それぞれ二本の幹が生まれます。先が兄、後が弟です。木の兄の幹が「木のえ」(きのえ=甲)、木の弟の幹が「木のと」(きのと=乙)、火の兄が「火のえ」(ひのえ=丙)、火の弟が「火のと」(ひのと=丁)となります。甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十本の幹が十干(じゅっかん)です。枝が十二本あって十二支(じゅうにし)、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥と称します。
それぞれの幹から一本の枝が出ます。まず甲の幹から子の枝が出て「甲子」(きのえ ね)。たとえば、大正十三年 1924年が甲子で、甲子園球場が出来た年です。こうして十年後、十番目の幹、 (水の弟、みずのと)は十番目の枝、酉を生んで「亥酉」となって、次の年は甲の幹にもどり、甲は今度は戌の枝を生んで「甲戌、次は「乙亥」、次に枝が子にもどって「丙子」と続いていきます。こうして「甲子」にもどるのに六十年かかります。つまり、六十年が時空のひとサイクルです。六十歳を還暦というのは、生まれた暦「十干十二支」の同じところに還ったというわけです。六十年が歴史のひとサイクルで、また新たな循環が始まります。
さて、今年の幹の名は「乙」です。枝の名が「未」、きのと ひつじ です。六十年前の乙未は1955年、昭和三十年。百二十年前は1895年、明治二十八年。さらに百八十年前は1835年、天保六年。サイクルと考えますから、乙未には同じような出来事が起こるので? ということで「占い」ができるわけです。
ところで、なぜ幹を甲乙丙・・・とか、枝に子丑寅卯・・・とかいう漢字をあてたのでしょう。そこが漢字の国ならではの発想です。十干十二支も、木の生長、しぜんにそった生成のサイクルを漢字で表現しているのです。
そこで、今年の「乙」はどういう意味の字かというと、芽が出て伸びていこうとするのですが、寒くてまっすぐに伸びずに曲がっている状態の表現です。下からの生長のエネルギーが外の抵抗にあっている形です。一方、「未」はというと、木の上のほうに「−」があって、これは葉が茂りすぎている状態。茂りすぎて暗いこと。「乙未」は、新しい伸びていくエネルギーが抵抗にあっていて、旧弊が世を暗くするようにはびこっている、とされます。悪いのかというと、必ずしもそうではなく「抵抗を乗り越える努力をし、余分な葉を落とす年」という、はっきりとした作業目標がある年なのです。
こういう時空論は文人趣味煎茶に、いろいろな形で見え隠れしています。だから、ちょっと知っておきましょう。

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