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文人が求める煎茶。これこそが「離俗の美」。 [ライブインテリジェンス]

これほどまでに日常と一線を引く所作はない。
そんなことを今回の「煎茶入門」で思った。いろんなことに興味を持って事を成した中では初めての体験である。

おこがましいが、なにをするにしてもテーマがある。それは「日頃の暮らしに反映させること」。それでこそ、いまのやっていることの意義や意味があると思っている。

しかし、『煎茶』はちがった。今回の煎茶は煎茶道ではない。"離俗の美"を求める「文人煎茶」。洗練された知性と品格の遊びの文化、ということらしい。

文人の煎茶は、「雅」でも「俗」でもない。もう一ついうなら「粋」でもない。その中から文人たちが見出したものが「離俗の美」。実生活の生活感から離れるために、和漢の古典文学をもとにイメージを膨らませる和漢混淆の美、つまり「離俗の美」を追求するものの一つであったと書かれている。
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3回講座の第一回目を一昨日行った。12名の方がお越しになり一茶菴
宗家の佃一輝宗匠のご指導を受けた。第一回目は「自分だけの茶・・・絶妙な一滴」というテーマであった。そして玉露を自分だけで愉しむ、というのがサブについていた。

椅子に座り目の前には、玉露を用いる後ろ手の小品急須である「茶銚」。煎茶の茶碗である「茗碗」。それから「急須」。茶合、托子、水柱、巾承などが置かれていた。

小さな急須に惜しげもなく玉露の葉を入れる。その急須に一滴の湯をたらす。急須を茗碗に傾け搾り出すかのような一滴が出てくるのを待つ。茗碗にたれた一滴の茶の匂いを愉しみ、そして舐める。
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この所作を6煎続ける。毎回、急須に注ぐ湯は、一滴二滴は同じところに注ぐ。そしてまた茗碗に垂らす。1煎ごとそれぞれの味の変化を五感で愉しむ、というものである。

むかしの文人はこのようなことをしながら書斎で愉しんでいたようである。自娯の心が煎茶を絶妙なものにするといわれている。この時間が、まさに離俗ということになるらしい。とにかく感性の世界ということになる。

誰のためにするものではない、ただただ自身の喜び愉しみの世界を味わうためのものである。ちなみに6煎のあとに湯を注ぎ、茗碗一杯の茶をのむなら、「俗」になってしまう。最高の葉でお茶づけでもしようなら、「俗・俗(ゾクゾク)」に。文人の煎茶では、絶対にありえない、という。

そして次回、最終回でどんな一滴が愉しめるのだろうか。
どれだけ、日常の暮らしに近づけるのか、またまた遠ざかるのか。これもまたワクワクする。
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