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俗の世界から離れて不思議な絵にめぐり合う。 [ライブインテリジェンス<易社文化塾>]

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9日の火曜日に煎茶文化塾「易社」になっての初の勉強会があった。先日の日記でも書いたように芳醇な味をもつ玉露を愉しんだ。
少しずつではあるが、この文化塾の特徴がわかるようになってきた。そのキーワードになる言葉が「五感」のような気がする。人間のもつ五感をより高めてくれる文化塾ということになる。さらに五感を働かせ行きつく先は「イマジネーション」の世界になっていく。

このイマジネーションを高めていくのが、煎茶文化塾「易社」の役割かもしれない。狙っていたわけではないが自然の流れの中で見つけられたもののような気がする。想定外といえば想定外である。

煎茶とイマジネーションの世界がどう結びついているのかというと、「佃一輝宗匠」という人がそうさせている。佃先生はいうなら、現代の”文人”である。煎茶を通して「脱俗遠塵」の芸術理念をもつ人である。つまり俗の暮らしから離れ、塵を遠ざけた世界にいる人のこと。

前回の勉強会のメイン講義が「南宗画」であった。日本で通称呼ばれているのが「南画」。この南画を私自身が説明するよりは、ネットからの参考になるわかりやすいものがあったのでご紹介する。


南画とは、捉えにくい表現であり理解に苦しむところですが、
簡単に言えば中国の唐、宋、元の時代に王維、董源、巨然らによって
始められ元の四大家によって基礎が作られた絵画様式の日本的な名称で
南宗画の略称である。
中国には文人(士大夫**階級の名称)がおり、その人たちが職業画家の絵
ではない絵を目指し文人の趣味に合う詩書画一体の文人芸術にまで高めた。
これが時代を経て日本に入り、日本独自の解釈で発展して来た。
広義の解釈では幅広い範囲の絵を含み俳画から風景山水画、墨彩画、水墨画
茶席に合う茶掛け風の簡単な絵まで、先生によってテーマと表現技法が異なります。
これが日本の現状です。

文人画は、本場の中国において階級に密着した用語であり、
職業画の蔑視と表裏一体になっている。江戸時代の「南画家」たちをひきつけたのは、
南宗画の技法そのものよりも、むしろ理念の面だった。
かれらはそこに、自らの置かれた身分制度の束縛からの芸術による解放を夢み、
それを実践したのである。画家の身分や職業はそこではむしろ問われない。
必要なのはかれらの人柄、その画く絵が俗でないことである。


という解説が記してあった。まだ理解しにくいところはあるが、佃先生に学んだことは、この世にない世界を画家のイマジネーションで創作するものである、と。その技法はいまの絵画にはないものである、という。

例えば、風景の中に、木や家や山がある。それぞれのものを見る目線がすべて違うということらしい。木は下から見上げている。家は同じ位置の目線から描いている。山は同じ高さの位置から描かれているわけである。それぞれが一緒のキャンパスに描かれている不思議な絵である。だけど一見しただけではわからない。なんともなんとも不思議なものである。画家のイマジネーションの世界を表現していることになる。

それが掛け軸になっている。その絵の楽しさ、不思議な世界の話を聞きながら玉露を愉しむ。俗の世界にはないひと時である。

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