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京都西山に佇む「善峯寺」の歴史の重み [文化想造塾<社寺>]

京都を訪ねた際に、東山の社寺に参拝することはあっても西山周辺に出かけることは少ない。
数年前に京都の三大松の一つが「善峯寺(ぜんみねでら)」にあると聞いていたので、
松好きとしてはぜひとも観てみたいと常々思っていた。それがやっと実現した。

善峯寺、といってもご存じない方も多いだろうと思う。
京都市西京区にある天台宗系単立の善峯観音宗の寺院。
西南端近く、釈迦岳(標高630.8m)の北東の善峯に位置し、山腹一帯に多くの堂宇が点在する。
1029年に、比叡山延暦寺の僧侶だった源算が自作の千手観音像を本尊として創建したという。
あと8年で一千年を迎える歴史のある寺院である。

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室町時代の応仁の乱に巻き込まれ伽藍の大半が焼失した。
江戸時代になって第5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)が大檀那となって、
現存する観音堂・鐘楼・護摩堂・薬師堂・経堂・鎮守社などが再建され復興を遂げた。
現在は、西国三十三所第20番札所として人気を集めるお寺になっている。
それに加え、桜や紅葉の名所として多くの人たちに親しまれている。
境内各所からの京都市街全域や比叡山を臨む景色は見応えがある。

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阪急東向日駅からバスで西山の支峯の善峯寺終点まで約30分。
バス停留所から山道を数分歩いて上ったところに山門が聳え、
石段を上がった正面に本堂(標高305m辺り)があり、その左手(南)に文殊寺宝館がある。
本堂右手には、今回の参拝の目的の一つである「遊龍の松」がある。
そして石段を上った一画には多宝塔などがある。
そこから上ったところに釈迦堂、その上に阿弥陀堂があり、
境内のもっとも奥には薬師堂、青蓮院宮墓地御殿などがある。

葉が目立つようになった桜が少し寂し気に垂れ下がっていたが、
惜春の美しさをかもし出していた。
京都西山の山麓の木々に囲まれた堂宇が歴史の重みを感じさせていた。

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煎茶の稽古で、本草学を学ぶ。 【一茶庵稽古追想】 [文化想造塾<易社/煎茶>]

煎茶の稽古に登場したのが「本草学」なるもの。耳にしたことのない学問に躊躇しながらも興味を覚えた。
ひと言でいうなら「中国古来の植物を中心とする薬物学」となる。西暦500年ごろ中国では、陶弘景のまとめた「神農本草」が初期文献ということである。それを明の時代に、李時珍が「本草綱目」という題目で集大成し確立された学問のようである。
日本には平安時代に伝わり、江戸時代に全盛となり中国の薬物を日本産のもので当てる研究が行われ、動物・鉱物にまでおよび、それが博物学・物産学に発展していった。

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稽古に鹿のお軸が掛けてあった。茶席では、鹿といえば秋によく見かけ、この時期になぜだろうというという疑問がわいていた。
鹿の画の上に文字(写真)が書かれてあった。鹿の種類や角の解説文がお軸の賛に。鹿の角は、不老長寿の薬としては周知の事実である。この解説が、明の時代の「本草綱目」に記されてあるという。

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こんな話を聞きながら、一茶庵に伝わる「沃茶法(よくちゃほう)」で春の夜を堪能した。
ちなみに沃茶法とは、急須に茶葉を入れ、急須の外側に湯をかけ急須を温め、茶葉を蒸らす。そして急須の蓋を開け茶葉に湯を注ぐ。
喉を潤すほど飲むわけではないが、味の変化を楽しむお茶として五感を刺激する。
この感覚が体や心によき変化をもたらすのであろう。

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淡海の葦。<湖水の風景Ⅱ>  [伝統文化]

「葺辺(あしべ)には 鶴(たづ)がね鳴きて 湖風(みなとかぜ)寒く吹くらむ 津乎の崎はも」。
淡海(琵琶湖)のヨシは、万葉集に詠われ、
イネ同様に古い時代から日本を代表する植物と言われている。
琵琶湖でも西の湖、近江八幡市あたり湖岸に多く生息している。

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調べてみると、平安時代までは「葦(アシ)」と呼ばれ、
その後、アシが「悪し」を連想させ縁起が悪いとして「葦(ヨシ)」となったようである。
ヨシが使われてモノとして真っ先に思いつくのが「すだれ」である。
ヨシの茎で作ったものは「よしず」と呼ばれている。
そして古民家の茅葺屋根にもヨシが使われている。
さらに、神社などの儀式に用いるたいまつにも松の木の芯とヨシが一緒に束ねてある。
また、ヨシの茎は中が空洞になっているため笛などに利用されたという。
古代中国では、楽器である篳篥(ひちりき)の口に当てる部分「舌」にも、
また西洋楽器では「リード」部分にも葦が使われているようである。

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なによりも葦が知られていることで有名なのが、
フランスの哲学者 ブレーズ・パスカルが記した「人間は考える葦(アシ)である」という言葉。
これなら聞いたことがあるという人も多いのではないだろうか。
しかし、何で人間が "葦" なんだろうと疑問がわいてくる。
強風が吹くと茎が折れて倒れやすい弱い植物であるのは間違いない。それが、何で? と。
調べてみると、こんな答えだった。
「人間は自然の中でもっとも弱い一本の葦みたいなものだが、
考えるという能力をもった存在だ」と記されていた。実にわかりやすい答えであった。

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湖水に立つ鳥居。 【湖水の風景Ⅰ】 [文化想造塾<社寺>]

伝統文化や、文化継承に欠かせない技術などに興味をもつ者には、京都は宝の山。
当然、京都を訪れる頻度が多くなる。そして京都の次が琵琶湖のある滋賀。
湖西や湖東、湖北は自然の恵みの宝庫であることは言うまでもない。
また、京都に隣接するということから神仏信仰の篤い地域でもある。

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琵琶湖、湖西には神聖な山として知られている「比良山」がある。
その比良山を祭神にしていた「白鬚(しらひげ)神社」(現在の祭神は猿田彦命)は、
湖畔の国道161号線沿いにある。
この白鬚神社の大鳥居は、本殿前にあるのと、
もう一つ、国道を挟み湖水の中に立つ朱の鳥居がある。
広島・宮島の厳島神社によく似ていることから「近江の厳島」と称されている。

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この白鬚神社の鳥居は、厳島神社の大鳥居と同じく「両部鳥居」といわれているもの。
片方に柱が3本あり両方で6本あるのが特徴である。
水中にある鳥居は、柱の置く場所の基礎は作られているようだが、
柱が地中に埋め込まれているわけではなく、ただ置いてあるだけ。
置くには上に重みが必要である。
その重みが鳥居の「笠木(島木)」の部分に重石をいれて押さえつけている。
これだけで安定している、というから不思議である。

こういった水中に鳥居がたつ神社は全国で8カ所あるらしい。
厳島神社の鳥居をはじめ陽が出るとき、沈むときの美しさは格別である。
幻想的な景色として、またパワースポットとしても多くの人を集めているようだ。

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永谷宗円が開発した「製茶法」が認められ、宇治茶が日本を代表するお茶に [伝統文化]

もうすぐ茶摘みの季節。新茶を摘むのは年一回で、
立春から数えてちょうど88日目の八十八夜ごろからスタートする。今年は、その日が5月1日。
お茶によって、場所によって、また気温によって時期がズレるところもある。

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お茶の聖地といわれる京都・宇治田原町では茶摘み体験が毎年行われている。
その宇治田原町は、摘んだ新芽を蒸すか茹でるかの加熱処理し天日で干して乾燥させる
「青製煎茶製法」を開発し、宇治茶を世に知らしめた「永谷宗円」の出身地。
その宗円が製茶法で作りあげたお茶を江戸に持っていき、
茶商の山本嘉兵衛に販売を託したところ、たちまち評判となり、
以後「宇治の煎茶」は日本を代表するお茶となったと言われている。

茶商、山本嘉兵衛というのは、いまの株式会社山本山の初代である。
1738年、山城国宇治田原郷湯屋谷の永谷宗円の製茶法を認め、宇治茶を「天下一」と称した。
いまに受け継がれている「宇治製法」は京都府の指定文化財になっている。
そして数年前から世界文化遺産への登録に向け動き始めている。

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永谷宗円

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永谷宗円の生家 & 茶畑

毎年4月下旬に収穫される「新茶第1号」を、
手もみ保存会による伝統的な焙炉を用いた手もみ製法の実演と、
製茶機械を用いた機械もみ製茶の技術研修などを行っている。
この研修会は、今年の宇治田原の新茶シーズンの幕開けを告げるものである。

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宇治田原町の茶畑


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蘇軾の心情を表した詩、「赤壁賦」 【一茶庵稽古追想】 [文化想造塾<易社/煎茶>]

蘇軾の「赤壁賦」の詩の一節に「撃空明兮泝流光」というのがある。
その一節が書かれたお軸が稽古の席に掛けてあった。
この「赤壁賦」は、後世に伝承された詩文の一つ。

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赤壁は、ご存知の三国志で覇を争って大激戦したところ。
蘇軾は、魏の曹操や呉の周瑜の盛衰を偲び、自分の儚い身の上を嘆き、大自然の前では人間は儚いものであることを悟る。
虚心に明月と長江の清風を楽しみ憂いを忘れた、という感慨を綴ったのが、この赤壁賦である。
この一節は、赤壁賦の中でも蘇軾の情緒心を最大限に表現した一文である。
訳すと、「空明(くうめい)を撃ちて流光に泝(さかのぼる)」となる。

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今回の稽古は、この一節の、蘇軾の想いを感じるとるためにイマジネーションを膨らますことが宗匠から求められた。
しかしながら、基礎知識があるわけではないので、過分な内容にあたふたするだけだった。
宗匠の誘導によって見えてきたストーリーは、
東山に月が浮かび、長江の水面の、白露のように光る月に導かれ、小舟は飛翔し天に昇る心地になる、という蘇軾の心情を綴った一節である。

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お茶は、茶銚に茶葉を入れ、茶碗にとっていた冷水を、茶葉にかからないようにゆっくり入れ、待つこと5分。それを茶碗に注ぐ。掌(たなごころ)という淹れ方で3煎まで淹れた。
1煎から2煎、そして3煎にもなると、渋味も薄らぎまろやかな味へと変化していく。茶味をとおし蘇軾の心情に寄りそうための稽古であった。

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東福寺本堂に初めて入る。釈迦三尊像と蒼龍図の迫力に圧倒 [文化想造塾<社寺>]

先月、お釈迦様入滅の法要「涅槃会」で京都東山にある御寺泉涌寺を訪ね、その後に東福寺を参拝した。東福寺の涅槃図は御寺泉涌寺と同等の大きさを誇る貴重な遺産として法要の際には本堂に飾られる。残念ながら今年は、その涅槃図が修復のため鑑賞は叶わなかった。

その本堂には、本尊である釈迦如来立像と、その脇侍にお釈迦様の十大弟子の二人である阿難(あなん)尊者と迦葉(かしょう)尊者の立像が安置されている。その釈迦三尊像を守るかの如く、東西約22m、南北約11mの鏡天井に堂本印象筆の蒼龍図が描かれている。鋭くとがった角と細かく描かれたウロコが特徴である。通常は本堂には入れないが、涅槃会の際には公開されていた。

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東福寺は三門、本堂、方丈、庫裏などからなる主要伽藍を中心に25の塔頭寺院がある。主要伽藍の北には洗玉澗(せんぎょくかん)という渓谷があり、西から東へ臥雲橋(がうんきょう)、通天橋(つうてんきょう)、偃月橋(えんげつきょう)という3本の橋(東福寺三名橋)が架かる。
ご承知の通天橋は、本堂から通じる廊下がそのまま屋根付きの橋となったもので、この付近は特に紅葉の名所として知られる。

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今年は東福寺の涅槃図は見ることはできなかったが、本堂に入り、釈迦三尊像をまじかに参拝させていただくことができた。そして蒼龍図を真下から見上げることができた。
本堂内では撮影禁止だったので、外から許可を得て撮らせていただいた。

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植物から創造された「家紋」 [伝統文化]

3月24日のヤフーのトップページに「今日は、徳川家康が征夷大将軍になって、江戸幕府が成立した日」と出ていた。そのあとに、徳川家の家紋のモチーフになった植物は? という追文があった。

この一文にひっかかり、家紋について調べてみた。時代を遡っていくと、当然ながら織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下を統一した武将が登場する。その武将が用いていた「家紋」というものに興味がそそられる。

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それぞれの戦国武将のドラマを見ていると、その度、武将ののぼり旗に描かれている「家紋」が映像に映され何気なく頭に残っている。とくに長い時代、日本を統治した徳川家の家紋が印象深い。ご存知「葵紋」である。
馴染みがあるのが "この紋どころが目に入らぬか" という台詞で有名な水戸光圀公の"黄門さん"。黄門さんが印籠を前に突きつけ悪者を退治する。その印籠に葵紋が描かれている。
そんな光景をよく見てきた者には「家紋」の形状に興味がわく。
この葵は、枝の先端に通常、葉柄をもつ葉が二枚あり二葉葵と呼ばれている。徳川家康が将軍になってから、二葉葵に一葉加え「三つ葉葵」の紋とした。

徳川家の前は、豊臣、そしてその前が織田。この御三家が使った紋が見ての(写真)通りである。信長はいくつかの紋章を使っていたといわれているが、織田家としては、やはり「木瓜紋(もっこうもん)」、そして「桐紋」が有名。その中でも「五三桐紋」は信長と所縁が深いと言われている。その家臣であった秀吉も「桐紋」を継承。しかし、豊臣という名を名乗ったときから、信長の桐の葉の枚数を変え「五七桐紋」を使ったといわれている

そのあとに登場する家康が「葵紋」。いずれにしても家紋には植物の葉や花がモチーフになることが多い。自然が織りなす色や形などを見ていると何かが新しく生まれ創造されていくような気がする。
日本の伝統文化は、自然の中から生まれ、自然と共に育まれた宝物である。

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       徳川家の葵の御紋

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       織田家の木瓜紋

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       織田家の五三の桐紋

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豊臣家の五七の桐紋

レポート & 写真 / 渡邉雄二 Topphoto / 家紋の画像より転載 

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鯖寿司で、日本料理の妙味を知る。 【魚のさばき方料理講習会】 [伝統食文化]

昨夜の料理講座は、日本料理の味付けに改めて感動する講習会だった。
「塩」、「醤油」、「酢」、「昆布」、「削り節」、「味噌」、「砂糖」、「みりん」等々は日本の味付け調味素材の代表である。
これらの調味料には当然ながら役割がある。そして意味がある。それぞれの相性もある。すべて日本独特の味付け素材。甘く、濃く、薄く、締める、隠すという味付けになくてはならないものばかり。料理工程でそれぞれの役割と意味が見えてくる。日本料理を引き立てる大事な脇役である。

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前段はさておいて、昨夜行われた料理実習の素材は「鯖(サバ)」。この鯖を使ってメインに作ったのが「鯖寿司」(写真)。そして「柿白和え柿釜盛り」、「鯖の酢洗いトマト和え」、「鯖の茸酢和え」、「鯖の朴葉味噌焼き」、「船場汁」の計6品。

この講習会の大きな目的の一つが「魚のさばき方」。魚の中でも特に難しいのが鯖といわれている。脂がのっていればいるほど柔らかい。身が溶けていく。
ご存知のように青魚は血がよく出る。さばき方を間違うとまな板が血の海状態になる。できるだけ血が出るのが少ないさばき方を習った。エラやお腹に必要な切れ目をいれ、頭を手で引きちぎるように外すと腸も一緒にくっ付いて取れる。

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おろした後の1/2を鯖寿司に使う。切り身に塩を振る(時間があるときは薄塩して2時間)。時間がないので盛り塩に。酒でさらっと洗って水分をふき取る。そして血合い骨をピンセットで取り除いて腹骨をすきとる。皮は、甘酢に30分つけた後にはぐ。
甘酢で煮立ちさせ冷ました白板昆布と寿司飯そして鯖を巻き、酢で整える。(写真)
他の5品も季節のものに合わせ、鯖の美味しさを引き出していた。鯖尽くしの料理になった。船場汁などは鯖とは思えない上品で高級感が漂った。

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日本料理の中でも青魚料理だったので、特にかも知れないが脇役の陰の力が引き立った。日本の絶妙な味をこれらの脇役が支え作り出している。

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※この記事は、10年前に和香の田村佳子先生による「魚のさばき方」をベースにした料理講習会を主催していた時の記事です。


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安部文殊院の「文殊菩薩像」に向きあい、知恵を授かる?! [文化想造塾<社寺>]

生まれ年の干支によって守り本尊があるのをご存知だろうか。
調べてみると東西南北と北東、北西、南東、南西の八方角をからませて八体の守り本尊があるといわれている。

私は文殊菩薩。文殊菩薩は卯の年の人を守る本尊とされている。
江戸時代の文献に日本の三大文殊の霊場の一つが奈良にあると聞いていたので、
数年前になるが、「安部文殊院」に出掛けた。
同院は奈良・桜井市で、大阪から近鉄電車で40分ほどのところ。
のんびり旅なので、桜井駅から20分ほど歩いた。
大和の山々を眺めながら、初春の古都の田園をゆるりと歩いたのを記憶している。

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安倍文殊院は、西暦645年大化改新のときに建立された寺院である。
その時の左大臣だった安倍倉悌麻呂公が安倍一族のために建立したといわれている。
安倍文殊院といえば、あの有名な陰陽師、安倍清明公が出生したところでも有名である。

この時期はまだまだ人が少ないせいか、本堂には誰もいなく、
有難いことに一人で菩薩像と向き合うことができた。
高さ7メートルの文殊菩薩騎獅像は、右手に利剣をもち、左手に蓮華をもっている。
胎内にあった墨書銘から快慶が建仁3年(1203年)に造ったものと判明している。
「安倍文殊院の本尊は知恵文殊」として文殊信仰の霊域の道場になっている。
厄払いに訪ねた安倍文殊院の本尊から "知恵" を授けていただいたように思うが・・・
さてさて。

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