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15年前の、長い一日の記憶。(2偏) [雑感]

1995年1月17日。ちょうど15年前の今日である。日本全国を震撼させた阪神大震災によって淡路・神戸を震源に関西を一瞬のうちにならずの底にたたき落とされた、忘れもしない日である。

その日のことを書き残すことを一切してこなかった。私も言葉に残せないほどの大きな打撃とショックを受けた当事者であった。その打撃は数年続き、のち平穏な日々を取り戻し15年が経った。

15年前の1月17日の私の一日を追ってみるとー。
いまでも鮮明に思い出せる。いつもながらであるが思い出すたびになぜか涙が流れてくる。

その日、地震で目が覚めた。確かに揺れた。前日の16日から兵庫県の千種高原スキー場に入り、17日の打ち合わせに備えていた。
この千種高原は大阪から一番近いスキー場としてCFをつくり、トータルのコンサルティング活動を続けてたクライアントであった。

揺れで目が覚めたが、特別にロッヂ等に被害があったわけでもないので、再び寝て目が覚めたときは確か7時半ごろだった。何気なくテレビのスイッチを入れると、画面から流れる映像はドラマで戦火の町を見ているかのような光景が写りだされていた。

ただ、スタッフと"すげぇ! どこやろ!"と何気ない会話をしながら10分位見ていた。東灘から芦屋市にかけての43号線上の高速道路が崩れ落ちている光景を見た瞬間、背筋に電流が走った。

ここで初めてただ事でないことに気付く。一目散に受付にある公衆電話に走った。崩れ落ちている高速道路から車で10分程度のところに自宅がある。へぇ~、といううめき声を出したことをしっかりと覚えている。

掛けてもつながらない。何度も何度も掛けなおして何度目かは忘れたがつながった。
出たのは家内で「どうしよぅ~、大変!」という言葉を繰りかえすだけだった。子供たちは? という問いに少し冷静さを取り戻したのかしっかりとした声で大丈夫!という返事が返ってきた。電話がつながったのはこれが最初で最後だった。

ここからが、私の長い、長い一日が始まった。

スキー場の方に千種町のバス乗り場まで送ってもらったが、これからは自力で帰るしかない。車はスタッフがいたので置いて山を降りた。ただ中国自動車道の山崎ターミナルから高速バスを使って帰ろう、とただそれだけで山を降りてきた。

千種町からバスに乗り、スムースに山崎ターミナルまで行けた。ターミナルではバスを待つ人もほとんどいなく、切符売り場で尋ねると地震でバスは動いていません、ということだった。

ここで私の動きは寸断されてしまった。たびだび切符売り場に行ってはバスは何時頃に動き始めますかね? という問いを繰り返すだけだった。そして電話ボックスへいっては自宅へ掛けたが・・・。繋がらない。

それをずっと見ていた方がいた。"もしかすると、おたくさんはこの地震で神戸方面に行かれるのですか?" とおばあさんが声をかけてくれた。
"そうですが・・、でもバスが動かなくて"。
"それなら、私も名谷(神戸の北方面)に住む娘の家に行くんですが、これから親戚と車で行きますので一緒に乗りませんか" と。

この言葉は"天の声"のように聞えた。

地道を走ったので3時間くらいはかかった。無事に名谷駅に着き降りた。このおばあさんに「ありがとうございます」と一言いっただけ。それ以上に感謝の意を表す言葉が浮かんでこなかった。

早速、三宮までの電車に乗ろうと駅に行ったが、電車は運休。動いるはずもなかった。名谷から神戸三宮まで行くには山をいくつか越えないければならない。電車が動いてなければタクシーで、と乗り場まで駆け寄って、"三宮までいけますか?" という私の問いに、そんなアホなことを言うなょ、という言葉が私を打ちのめした。

頭を抱え込んでしまった。またここでも動きが寸断された、と思っていたところ、後ろでタクシーの運転手とおじさんのかなりの激しいバトルが聞えてきた。

おじさんは、かなり上から目線で運転手に"私は県の職員だ。緊急の呼び出し命令が出ている。県庁まで走らせろ!" と声を荒げていた。運転士はしぶしぶ"その替わり行けるところまでですょ"と。私の対応のときとちゃうやん、と思いながら。このチャンスを逃がす手はない。

私は、そのタクシーの後部座席にそのおじさんと並んで座っていた。思っていたよりはガラガラ。山崩れもない。トンネルを越え出てきたところが新神戸駅の横。その道を5分も走れば三宮駅である。

スムーズに降りてこれた、と思ったつかの間、私の目の前の視界にはビルは崩れ落ちている光景が・・・。朝テレビでみた映像がそのまま私の目に飛び込んできた。

"お客さん、もうこれ以上は走れません" と運転士に促され、しぶしぶおじさんと私はタクシーから降りた。わたしはおじさんに「ありがとうございました」と声を掛けたとき、そのおじさんはすでに小走りで駆け出していた。
このとき、すでに2時を回っていたと思う。スキー場を飛び出したのが8時頃だったので、あれから6時間が過ぎていた。

ここからは自宅まで歩くしかない。三宮から東灘あたりの無残な状況を見ながら必死に東へ歩いた。

次回へ

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