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歴史と自然が調和された優美さ、名勝「好古園」  [日本の美]

姫路城は、ご承知の通り世界遺産・国宝として国内外に知られ、訪れる観光客の多さでその知名度の高さが伺える。その姫路城に隣接している名勝「好古園」は訪れる人たちの目を楽しませてくれる。
庭園は、9つの大小庭園と樹林帯や広場で構成され、築地塀・屋敷門・長屋門や渡り廊下で結んだ「活水軒」「潮音斎」をはじめ、本格的な数寄屋建築の茶室「双樹庵」などがある。
水の流れで結ばれた国内屈指の池泉回遊式庭園で、とくに晩秋は見どころ満載。渡り廊下から眺める紅葉は、燦然とした絵巻物のような風景である。
そして最大の特徴は世界遺産・国宝姫路城を借景として楽しめる。
歴史と自然がみごとに調和され、優美な景観をつくり上げている。

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播磨地域にお出かけの折は、ぜひ、姫路城と好古園をご堪能くださいませ。

※2017年に訪れた折に撮影、書き残した雑感記事

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官兵衛から中村陸軍大佐まで、姫路城歴史秘話ヒストリア。  [歴史遺産]

5年半をかけて大天守保存修理工事が終わり、新生・姫路城(白鷺城)が姿を現したのが2016年の春。その一年前、NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」が放映され、官兵衛の生まれ故郷である姫路や播磨地域が一気に注目を集めるようになり、翌年の姫路城再生オープンへと繋がった。見事に仕組まれたメディア、地域熱、そして再生への流れが功を奏し、姫路城は連日行列が続いた。

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「軍師 官兵衛」さんのお陰で、姫路城に関心をもった方たちも多いことだろう。私もその一人である。訪れた際に、城内で戦国時代の歴史ヒストリアとは少し異質な石碑を見つけた。石碑には「陸軍省 中村重遠大佐」と刻まれていた。
後で調べてみると、姫路城が存続しているのは、この中村大佐のお陰のようである。1878年、神戸清一郎が姫路城を手放すにあたり、中村重遠陸軍大佐が、陸軍卿 山県有朋に姫路城の存続を申し出たことによって存続することになったという秘話ヒストリアである。
(資料には、1871年に神戸清一郎氏が姫路藩の姫路城競売により23円50銭で落札したと記されてあった。)

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1346年、赤松貞範が姫山に砦を築いたのが姫路城のはじまりのようである。そして大河ドラマ「軍師 官兵衛」にあったように1567年に黒田孝高(官兵衛)が家督を継ぎ、1580年に官兵衛は秀吉に姫路城を献じた。
築城から670年の時を刻んだ姫路城。これからさらに歴史はどう刻まれていくのだろう。なにも変わらなく、平安の世のシンボルとして後世に残っていくことが誰もの願いである。

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この記事は、2016年掲載したものに少し加筆した。

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「能勢人形浄瑠璃」が能勢町のブランドに、町を支える礎に。 [伝統芸能]

少し古い話であるが、ある研究機関が自治体や半官半民の企業の方たちとの月に一度の勉強会に誘いを受け少し話をしたことがある。テーマが「地域に息づく伝統文化」という内容。その話の骨子が、地域の柱になりつつある伝統文化として話題を集めた「能勢の浄瑠璃」についてであった。

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「能勢の浄瑠璃」は、大阪府豊能郡能勢町に伝わる、約200年以上の歴史をもつ伝承芸能である。もともとは素浄瑠璃として太棹三味線と太夫の語りによって物語が伝えられ、江戸時代のお座敷芸として賑わっていた芸能の一つ。                 
それを次の世代に受け継がれていく新たなチャレンジとして、1998年に新しく人形が加わり「能勢人形浄瑠璃」としてスタートした。それは「文楽」という伝統芸能というジャンルになるが、地域に根づく地域の大切な宝物として伝え継ぐためには地域色が大事なカギになっていく。通称の文楽とは少し異なものになるが、地域の伝承芸能として守り継いでいくためには地域色をだすことが求められる。そのために演目を「能勢三番叟」「風神雷神」「名月乗桂木」など能勢ゆかりの物語に特化して演じている。

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2006年10月に能勢町制施行50周年を機に、「能勢人形浄瑠璃鹿角座(ろっかくざ)」として劇団の旗揚げとなった。それの少し前に人形浄瑠璃のホームグランド「淨るり
シアター」も建てられ伝承していく施設基盤ができた。それは観光の目玉として、また能勢町のこれからを支えるブランドに成長する礎になる。                  
浄瑠璃シアターの館長でプロデューサーの松田氏とそれを支える黒衣隊(くろこたい)の代表で三味線弾きの岡田氏の熱い解説に心が動く。この人形浄瑠璃を支える人たちはすべて地元のおじさん、おばさん、そして子供たち。農業の傍ら、仕事をしながら地元の芸能を支えている。地元の人々のエネルギーが何よりも肝心なことになる。

町を支えている原動力、つまり人や自然、そして伝統文化が今も脈々と生き続けている。
このエネルギーが伝統を継承し、お客様を呼ぶツーリズムへ、そしてビジネスへと実を結んでいく。令和の時代に入り、引き継ぐ次の世代が大きな原動力になりつつあるようだ。淡路島の人形浄瑠璃同様に、地域の文化がいつまでも輝いてほしいと願っている。

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京都 今宮神社門前のあぶり餅、郷愁を誘う。 [伝統文化]

京都市北区にある今宮神社の門前の参道に店を構える有名な「あぶり餅屋」さんがある。門前道を挟んで2軒とも見てのとおり長い行列ができている。
北側は、1000年以上も続く日本最古の和菓子屋さんと言われる「一文字屋和輔(一和)」。そして南側のお店は「本家 根元かざりや」さん。とくに一和さんは、長い歴史の中でいろんな伝説やエピソードが伝え継がれているお店で有名である。

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さて、あぶり餅といってもご存知ない方に、店で聞きかじった話をすると、きな粉をまぶした親指大の餅を竹串に刺し、炭火であぶったあとに白味噌のタレをぬった、いたってシンプルな餅菓子。そのあぶり餅で使われる竹串が、今宮神社に奉納された斎串(いぐし)を使っていることから病気・厄除けの御利益があるとされ、わざわざ遠方からも食べにくる人気ぶりのようである。

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この餅菓子にこれだけの人が並ぶ。餅の風味や御利益以外に、両店ともに昔の茶店風にアレンジされているのも惹きつける理由だろう。店先でお茶と餅をいただく。日本人の心の郷愁を誘うのかもしれない。
ちなみに、一和さんの店の屋根に守神の龍の如く這う松は、それは、それは見事なもである。

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人生を味わう茶になろうとは!? 【一茶庵 煎茶入門講座Ⅲ】 [文化想造塾<易社/煎茶>]

煎茶を楽しんでいただこうと2カ月で3回、「煎茶講座入門」を開催。
一回目が「自分だけの茶」、二回目が「あなたと一緒の茶」、そして3回目が「人生を味わう茶」がテーマだった。通して教えていただいたことは、煎茶の作法や所作ではなく “文人が愛した煎茶” 概論を玉露の味を通し体感させていただいた。
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夏目漱石にして"喉にくだるべき液は一滴もない"と煎茶を例えた名言がある。その言葉の意味が、この講座でほんの少しわかったような気がする。文人煎茶は喉の渇きを潤すものではない。一煎ごとに味の感想を、"甘い"、"渋い"、"苦い"、"重い"、"軽い"、 “まろやか” などで表現した。
昔の文人、詩人は、一煎ごとに感じた思いを言葉で表現することを楽しんだように、講座入門で同じような体験をさせていただいた。一煎目で甘味を「興奮を潤す」。二煎目では苦味を「独門を破る」とした。三煎目は渋味を「経汗に発する」などと表した。心の想いを比喩的表現で伝えるおもしろさを教えていただいた。

煎茶を通して、書斎の文化を楽しみ、そしてその周辺の設えやお軸などからは文字や絵の奥深さを感じた。部屋にいながらにして自然を感じ、山に、海にいるかのような気分になる。そして風も感じ季節を見ることができた。
講座を通して不思議な体感をした。なにも知らない私たちを心地よい気持ちにさせていただいた。煎茶の魔法をかけられたようである。
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※十数年前に開催した講座のときの感想記事である。この講座をキッカケに煎茶を習い始めた。

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煎茶入門講座Ⅱ は、「あなたと一緒の茶・・・思いの一滴」。 [文化想造塾<易社/煎茶>]

「煎茶入門講座」の第2回目は、「あなたと一緒の茶・・・思いの一滴」がテーマ。
1回目は「自分だけの茶」・・・、絶妙な一滴だった。文人が愉しんだ煎茶はあくまでも自分が愉しむお茶として成り立っている。

今回は「あなたと一緒」に愉しむ一滴。自分が美味しいと思うから、相手に勧める。今回は茗碗が2つ。

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前回と同じく6煎の味の変化を愉しむ。玉露の茶葉を急須に惜しみなく入れる。それに数滴たれる程度の湯を入れる。入れたあと、茗碗に注ぐまでの待ち時間が味の変化を左右する。2つの茗碗に交互に一滴、一滴たらす。それをまず自分が味わい、そして相手に勧める。この繰り返しで6煎の変化を愉しむわけである。味の変化は確かに違う。"甘味、渋味、苦味"の三味の変化が各煎ごとにそれぞれ違う。
亭主の6煎まで淹れるテンポがそれぞれ一煎ごとに違う。その時の自分の心境や相手への思いなどによって三味がその都度、また変わる。亭主は、それを客人が読みとってくれることを期待している。
いまでいうコミュ力ではなく、煎茶コミュ力ということになるのだろうか。
たしかに文人煎茶は喉を潤すものではない。五臓六腑にしみわたることはないが、内界に染み渡るのはまちがいない。
私の命題である、伝承された文化がいまの暮らしにどんな影響をもたらすのか、と自問自答しているが、文人煎茶講座は一歩進んだが、身近な暮らしからまた一歩遠ざかっていく。

次回25日が今回の講座としては最後。「人生を味わう茶」・・・沁みわたる一滴。さてさて一滴のお茶で人生が語れるのか、実に楽しみである。

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文人が求める煎茶。それは、「離俗の美」。 【一茶庵 煎茶入門Ⅰ】 [文化想造塾<易社/煎茶>]

これほどまでに日常と一線を引く所作はない。
そんな思いを抱いたのが、10年近く前に、煎茶稽古をはじめてまだ間もない頃、文人会一茶庵で「煎茶入門」という講座に参加したとき。その記憶が鮮明に残っている。

おこがましいが、ブログ記事を書く上で常に大切にしていることがあった。それは、取材テーマにしている日本の伝統文化を “日頃の暮らしに反映させる” ことである。それでこそ、いまやっていることの意義や意味があると思っていたからである。
ところが、この煎茶入門講座3回シリーズで学んだことは煎茶道への一歩ではなかった。「雅」でも「俗」でもない"離俗の美"を求める「文人煎茶」へのものだった。実生活の生活感から離れ、和漢の古典文学をもとにイメージを膨らませる和漢混淆の美、つまり「離俗の美」を追求するものであることを知らされた。

3回講座の第一回目は十数名の方が参集、一茶庵宗家の佃一輝宗匠のご指導を受けた。一回目は「自分だけの茶・・・絶妙な一滴」というテーマだった。そして玉露を自分だけで愉しむ、というのがサブテーマだったことを記憶している。

椅子に座り目の前には、玉露を入れる小品急須である茶銚、煎茶の茶碗である茗碗(めいわん)。それから茶合、托子、水柱、巾承などが置かれていた。
小さな急須に惜しげもなく玉露の茶葉を入れる。その急須に少量の湯を注ぐ。急須を茗碗に傾け搾り出すかのように一滴が出てくるのを待つ。茗碗にたれた一滴の茶の匂いを愉しみ、そして舐める。
この所作を6煎続ける。毎回、急須に注ぐ少量の湯は同じところに注ぐ。そしてまた茗碗に垂らす。1煎ごとそれぞれの味の変化を五感で愉しむ、というものである。

むかしの文人はこのようなことをしながら書斎で愉しんでいたようである。自娯の心が煎茶を絶妙なものにするといわれている。この時間が、まさに離俗ということになる。
誰のためにするものではない、ただただ自身の喜び愉しみの世界を味わうためのものである。ちなみに6煎のあとに湯を注ぎ、茗碗一杯の茶をのむなら「俗」になってしまう。さらに、最高の茶葉で締めにお茶づけでもしようものなら・・・。文人煎茶では、絶対にありえない、という。

そして次回、最終回でどんな一滴が愉しめるのだろうか。
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霜乃会、新感覚の古典芸能エンターテイメント! [伝統芸能]

昨日、久しぶりに人の集まるところにお邪魔した。
先日来、能楽師 林本大氏をYouTube「アスライトチャンネル」で紹介するための取材を行っている。その時に、林本氏から日本の伝統芸能の若手演者のグループ「霜乃会(そうのかい)」の年一回の講演の案内をいただいた。

その講演を昨日、大阪梅田のHEP HALLに観に行ってきた。霜乃会は「和の魅力、個の魅力が織りなす新感覚エンターテイメント」というキャッチフレーズで活動を行っている。
伝統芸能を伝承していくために、異なる分野の若手演者が集まり、古典芸能の魅力を新しい感覚で伝えている。

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霜乃会は、講談の旭堂南龍氏をはじめ、能楽の林本大氏・今井哲朗氏(共にシテ方)、浪曲の京山幸太氏、文楽浄瑠璃の竹本碩太夫氏(文楽大夫)、鶴澤燕二郎氏(文楽三味線方)、落語の桂紋四郎、そして茶道の松井宗豊氏の面々。

個性豊かなそれぞれの演者の技能を一堂に観ることができるのは、まさにエンターテイメントである。演じる側もそれぞれの刺激を享受し、そして観る側の興味がそれによってさらに増幅されていくような感覚になった。
日本の伝統芸能をけん引していく団体として霜乃会の役割は大きい。また、それぞれがそれぞれの分野で日本を代表する古典芸能の伝承者として活躍していただきたいものである。

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日本でただ一人の、全盲の琵琶法師。 盛者必衰の滅びゆく平家琵琶なのか!? [歴史遺産]

NHKEテレで10月2日(金) 23時00分~23時55分 の放送される、にっぽんの芸能「現代に響く!古典の名作“平家物語~那須与一”」の番組告知をみて心が少し高鳴っている。
サブタイトルが、平家琵琶の伴奏で語る今井検校勉の実演は圧巻!「平家琵琶」の伝統がなぜ名古屋に残るのか?その謎にも迫る、というもの。

平家物語を琵琶の伴奏によって語る「平家琵琶」は、あらゆる日本の伝統芸能のルーツともいえるだろう。明治以降、その伝統的な継承はほぼ途絶えてしまった。そんななか、名古屋では代々の尾張徳川藩主が芸事を重んじてきたため、その名残で今もその伝統は受け継がれている。
その平家琵琶は800年の歴史を刻む伝統芸能であるが、現在、本格伝承者としては愛知県江南市の今井検校勉さん。盲人伝承とされてきた名古屋の語り芸能「平家(平曲)」の演奏者で、名古屋だけに残された、師から伝えられた奥義である衣鉢をただ一人受け継ぐ琵琶法師である。鎌倉時代にまでさかのぼる、世界的にもまれな仏教文化遺産である。

この今井検校勉さんについては、以前、実際にご自宅まで押しかけ取材し、記事を書いたことがあるので強く印象に残っている。
その時に言われたことがいまも深く刻まれている。「音楽的に優れている盲人男子の弟子にのみ伝授するという伝統の掟があるため、晴眼者の入門を退けてきた。だから弟子がいない」と。そしてさらに「この伝統を変えることはない」 という言葉が胸に刺さったことを記憶している。                                         まさに、盛者必衰の滅びゆく平家琵琶なのか!とつぶやいたことを、そのまま記事の見出しに使った。この記事の見出しも、あえてそうさせていただく。
後日、京都の佛教大学アジア宗教文化情報研究所のシアター公演のときに、同大学名誉教授の関山和夫先生に話を聞いた。そのときの解説では、盲人の琵琶法師の語りは芸術でも音楽でもない、仏教である。と言う論説だった。荘厳で崇高なものである。音楽で捉えてほしくない、と言い切られた。
                                             今井検校勉さんでおそらく絶えてしまう文化遺産。盲人の語りは口伝承しかない。限られた人が苦しい修練を重ねてきたものである。さらに、音楽や芸術ではないと言うなら、悲しいかな伝承していく門戸は針に糸を通すようなもの。盲目の琵琶法師を文化遺産として、次世代に伝承するすべはないのだろうか。
※今井検校勉師の名前にある「検校」という意味は、中世・近世日本の盲官の最高位の名称。室町時代以降にその名称が定着した。
https://www.nhk.jp/p/nippongeinou/ts/5K1GW1XVN4/episode/te/JZ19KJW7WY/

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